2009年06月18日

多くの向精神薬が非特異的な受容体結合にて

多くの向精神薬が非特異的な受容体結合にて薬理活性を持つため、広範系が関与すると思われる数多くの薬理作用が認められる。近年多くの抗精神病薬が気分に関与すると考えられているセロトニン、ノルアドレナリンへの影響が認められるためかつては抗精神病薬は統合失調症治療薬としての側面が強調されていたがうつ病、神経症といった数多くの疾患に用いられる傾向がある。また単一発散型の神経回路に作用する薬物以外に中枢神経細胞の活動を直接変化させる薬物療法も存在する。中枢神経系では興奮アミノ酸であるグルタミン酸、抑制アミノ酸であるγ-アミノ酪酸 (GABA) が有名である。GABA受容体に作用する薬物として抗てんかん薬や抗不安薬(多くはベンゾジアセピン系)も併用するとがある。またNaチャネルに作用する抗てんかん薬としてフェニトイン(商品名アレビアチン)やバルプロ酸(商品名デパケン)、カルバマゼピン(商品名テグレトール)T型カルシムチャネルに作用する薬物としてバルプロ酸(商品名デパケン)も併用されることがある。
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定型抗精神病薬(Typical antipsychotic) [編集]
定型抗精神病薬の治療効果と主要な副作用である錐体外路兆候はドパミンD2受容体の薬物親和性に相関することが分かっている。定型抗精神病薬のドパミンD2受容体遮断作用は中枢神経のドパミン経路すべてに及ぶが、中脳辺縁系(腹側被蓋野から側坐核と腹側線状体、扁桃体と海馬の一部、その他の辺縁系構成部位に投射する。報酬経路をつくることで有名)とおそらく中脳皮質系(腹側被蓋野から大脳皮質特に前頭前野に投射する。これは注意、計画、動機に関与する)への拮抗作用が主要な薬理作用と考えられている。中脳辺縁系の遮断作用が統合失調症の陽性症状の改善に効果がある。また黒質線状体路や下垂体のドパミンD2受容体の遮断によって薬剤性パーキンソニズムなどの副作用が生じる。陰性症状の改善はセロトニン系の関与などが示唆されており定型抗精神病薬では改善が乏しい傾向にある。非定型抗精神病薬は定型精神病薬と比較してドパミンD2受容体への作用が緩和されており、セロトニン受容体やドパミンD4受容体、ドパミンD2受容体の解離速度などの差からより高い抗精神病作用をもち、錐体外路障害、高プロラクチン血症、心血管系副作用も少ない。そのため、2008年現在、統合失調症の第一選択は非定型抗精神病薬である。定型抗精神病薬の使い方としては非定型抗精神病薬に比べて鎮静作用が強いことからせん妄、不穏の治療や非定型抗精神病薬で治療が無効であった場合が多い。定型抗精神病薬は高力価抗精神病薬と低力価抗精神病薬に大別される。力価は抗精神病作用の強さであり高力価抗精神病薬とはハロペリドールに代表されるブチロフェノン系が中心であり、低力価抗精神病薬はクロルプロマジンに代表されるフェノチアジン系が中心となる。高力価薬は低力価薬に比べて鎮静作用と起立性低血圧の副作用が少なく、低力価薬は高力価薬に比べて錐体外路兆候が少ない傾向になる。これはドパミンD2受容体との親和性に関係すると考えられている。高力価薬はドパミンD2受容体への選択性が極めて高いため錐体外路兆候が出やすく、低力価薬はドパミンD2受容体選択性が低く、ムスカリン受容体やアドレナリンのα受容体へも非特異的な結合を起こし抗コリン作用や抗アドレナリン作用を起こしやすいと考えられている。

2009年06月01日

進化論(しんかろん)とは

生物の進化に関する科学的理論の体系。生物が不変のものではなく長期間かけて次第に変化してきたという考えに基づいて、現在見られる様々な生物は全てその過程のなかで生まれてきたことを説明する。進化が起こっているということを認める判断と、進化のメカニズムを説明する理論という2つの意味がある。現代的な進化論は単一の理論ではない。それは適応、種分化、遺伝的浮動など進化の様々な現象を説明し予測する多くの理論の総称である。生物で言う進化には、進歩する、前進する、より良くなるなどの意味はない。

現代の進化理論では、「生物の遺伝的形質が世代を経る中で変化していく現象」だと考えられている。進化は実証の難しい現象であるが、生物学のあらゆる分野から進化を裏付ける証拠が提出されている。人文社会学や宗教の分野においては議論があるが、自然科学の内部では進化が事実であるかどうかの議論はない。詳細は、進化の項目を参照のこと。本項では進化思想、進化理論、進化生物学の歴史、社会や宗教との関わりについて概説する。
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古代ギリシアの哲学者アナクシマンドロスは生命は海の中で発展し、のちに地上に移住したと主張した。エンペドクレスは非超自然的な生命の誕生を論じ、後の自然選択に類似した概念を書いている。中国では荘子が進化思想を持っていた。ジョセフ・ニーダムに依れば、道教ははっきりと種の不変性を否定し、道教の哲学者は生物が異なる環境に応じた異なる特徴を持っていると推測した。彼らは自然に対して、当時の西洋の静的な視点とは対照的に「恒常的な変化」を見いだした。古代ローマの哲学者ルクレティウスはギリシアのエピクロス主義に基づいていかなる超自然的干渉もなしで宇宙、地球、生命、人間とその社会が発展すると論じた。

ローマに受け継がれたギリシアの進化思想はローマ帝国の没落と供に失われたが、イスラムの科学者と哲学者へ影響を与えた。イスラムの学者、哲学者で詳細に進化を推測したのは9世紀のAl-Jahizであった。彼は生物の生存のチャンスと環境の影響を考え、「生存のための努力」を記述した。Ibn Miskawayhは蒸気から水、鉱物、植物、動物、そして類人猿から人へと進む生命の発展の歴史を書いた。イブン・アル・ハイサムは進化論を称賛する本を書いた。他の学者たちアブー・ライハーン・アル・ビールーニー、ナスィールッディーン・トゥースィー、イブン=ハルドゥーンらも進化思想について議論した。彼らの本はルネッサンス以降ラテン語に翻訳されてヨーロッパに持ち込まれた。

ルネ・デカルトの機械論は宇宙を機械のようなものと見なす科学革命を促した。しかしゴットフリート・ライプニッツやヨハン・ゴットフリート・ヘルダーのような同時代の進化思想家は進化を基本的に精神的な過程だと見なした。1751年にピエール・ルイ・モーペルテュイはより唯物論的な方向へ傾いた。彼は繁殖と世代交代の間に起きる自然の修正について書いた。これは後の自然選択に近い。18世紀後半のフランスの自然哲学者ビュフォンはいわゆる「種」は原型から分離し環境要因によって際だった特徴を持ったものだと考えた。彼はライオン、ヒョウ、トラ、飼い猫が祖先を共有するかも知れず、200種のほ乳類が38の祖先に由来すると論じた。彼はその祖先は自然発生し、内的要因によって進化の方向が制限されていると考えた。ジェームズ・バーネットは人が環境要因によって霊長類から誕生したのではないかと考えた。チャールズ・ダーウィンの祖父エラズマス・ダーウィンは1796年の著書『ズーノミア』で全ての温血動物は一つの生きた糸に由来すると書いた。1802年にはすべての生物は粘土から発生した有機物に由来すると述べた。また性選択に通じる概念にも言及していた。

2009年04月28日

ハンガリー社会主義労働者党

ペレストロイカの影響でハンガリー社会主義労働者党でも改革派の勢力が強まり、1989年に至り動乱の評価を修正し復権させた。ハンガリー社会主義労働者党の自らの自己批判は、後の東欧革命への導火線となった。

1989年2月の総括文書「四十年間に関する報告」の中に「1956年10月の大衆蜂起」と動乱を武装大衆蜂起とする規定に定めた。反革命と言う表記を改め、「大衆の目からは、一種の民族独立運動」に転化したと指摘した。また、ソ連軍の第二次介入(11月)中にも社会主義の徹底的民主改革と革新への努力が力となり、それは動乱中にも存在し続けた。と記述している。結局、ナジ政権は、その努力にもかかわらず、情勢へのコントロールを失い、逆に情勢に押し潰されたと分析した。

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1989年3月のナジの遺体発掘により、再評価は決定的となった。再埋葬式の式典に際し、党表明が載せられた。
式典は再埋葬を歴史的、象徴的出来事と捉えている。 
ナジと裁判で有罪となった政治家の正当な評価。
ハンガリー事件の正当な評価及び、外国への事件の資料の公表許可。
ナジはハンガリー史において重要な人物であり、国家救済の為に闘い、スターリン主義を抑え、不正を許さず反革命と闘った。彼は道筋は誤ったが、民主的複数政党制を認める社会主義の道と一体化した。
事件のすべての犠牲者はハンガリー国民である。この国民的損失を、ナジの再埋葬式典で、国民和解のシンボルとならなければならない。
ハンガリーはこの年を持って社会主義独裁を放棄した。それはナジの理想その物であり、冷戦の終結にも重要で計り知れない役割を演じた。ハンガリー政府は、自国の国民和解のみ為らず、西欧資本主義社会とも和解を演出した(鉄のカーテン撤去。汎ヨーロッパ・ピクニックへの協調)。1968年の「プラハの春」にも社会主義国家で唯一最初に正当に評価を下した。そして1989年10月23日、ハンガリーは一滴の血を流す事もなく社会主義を捨て、ハンガリー共和国を建国し、ヨーロッパへ回帰するのである。この日は、ハンガリー革命が起きたその日である。

2009年04月13日

耿 純(こう じゅん、? - 37年)

耿 純(こう じゅん、? - 37年)は後漢の武将。字は伯山(はくざん)、鋸鹿郡宋子の人(『後漢書』列伝11・本伝)。後漢・光武帝の功臣であり、「雲台二十八将」の13位に序せられる(『後漢書』列伝12)。

挙兵
父の耿艾は済平尹(新制における定陶郡太守)となり、耿純は長安に学び、納言の士(新制における尚書)となる。王莽が敗れて更始帝が立つと、更始帝は配下の李軼を遣り、耿艾もこれに降り済南太守となった。耿純は李軼に諫言することがあり、李軼は耿純が使える人物と思い、鋸鹿の豪族の出であるので騎都尉とし、趙、魏を帰順させようとした。行大司馬劉秀が河北に渡り邯鄲に至るにあたり、耿純は宋子より到りて謁見し、劉秀は丁重に扱った。他の更始帝の将と異なり、劉秀の兵士の規律が整っているのを見て、耿純は劉秀と結びつこうと貢物を献じた。劉秀は耿純を邯鄲に残して中山に向かったが、更始1年(23年)12月、群雄の王郎が挙兵する。王郎は劉秀に賞金を賭け、耿純らにも追討を掛けるが、耿純は邯鄲を脱出し、宋子へ戻り、劉秀を探して盧奴にいると知ると、従兄弟たちと盧奴に向い、王郎の挙兵を告げた。劉秀は一旦北上して薊に進み、耿純は南に戻る。劉秀は騒乱する薊を南下し、苦難の末、ようやく迎え受けてくれる信都郡に入った。一方、耿純は従兄弟の耿訢、耿宿、耿植らと共に一族郎党を率いて、育県にて劉秀を迎え奉じる。劉秀は耿純を前将軍として侯位を授け、耿訢、耿宿、耿植を偏将軍とした。劉秀らは宋子を降し、耿純らは従いて下曲陽及び中山を攻めた。

戦歴 [編集]
劉秀は王郎の将李育の砦す栢人県を攻めるが落せなかった。栢人を攻めるより鋸鹿を攻めるべしの進言に従いて、劉秀は鋸鹿県を囲むが、太守王饒は固守し数十日しきりに攻めるも勝てずにいた。耿純は説きて曰く「いつまでも王饒の攻撃に固着するならば、兵士は疲弊してしまいます。そうではなく、大兵の精鋭たるを以って進んで邯鄲を攻めるべし。王郎誅すれば王饒は戦わずして、自ずから投降致しましょう」。劉秀、この言や善しと、即ち鄧満を守将として残すと、邯鄲を攻め、ついにはこれを破り、王郎を斬った。更に耿純は劉秀に従いて銅馬を撃った。更始帝軍と正面から戦うことになった故、諸将は劉秀に都度都度即位を促すが、劉秀は肯んじない。中山に至って、諸将再びこの議を上奏するが劉秀は受けない。諸将が退出しようとしたところ、耿純は進んで諫言し[1]、耿純の意見が甚だ誠実なれば、劉秀は深く感じて「我このことを考えん」と答えた。

後漢の元勲に [編集]
建武1年(25年)、光武帝は即位し、耿純は劉永を済陰に撃ち、定陶を降した。光武帝の陣営である真定王劉楊(揚)[2]は予言の書[3]を捏造し、衆を惑わせんと欲した。

建武2年(26年)春、光武は騎都尉陳副と游撃将軍鄧隆を遣わして劉楊を召すが、応じない。そこで、光武は耿純に節を持たせて遣わし、各王侯を労いさせ、密かに「劉楊が謁見するようであれば、これを捕えよ」と命じた。結局、耿純は、劉楊が挙兵する前に謀殺した[4]。耿純は京師に帰ると、自分は将となり侯位を受たが、元々は官吏の出であり、天下は粗方定まりたればと、自ら一郡を治めることを請うた。光武帝は耿純を東郡太守と為す。その時、東郡は平がざるも、耿純が就きて数月にして盗賊は沈静化した。また、更始帝の東平郡太守に、泰山、済南、平原の賊を平らげた。勤めたること4年、取調べたる者が、奏が降りる前に自殺した事を罪に問われ太守を罷免された。

建武6年(30年)、東光侯と為り国に就いた。

建武8年(32年)、東郡に盗賊が決起したので、光武帝は耿純を太中大夫と為し大軍と共に東郡に会せしめた。すると盗賊九千余人、耿純が来たと聞くや、皆な耿純に降り、大軍は戦わずして帰った。光武帝は耿純をそのまま東郡太守と為し、役人民衆は耿純に服した。

建武13年(37年)、在職のまま卒す。謚は成侯。

人柄・逸話 [編集]
耿純が薊から南下した劉秀についた時、邯鄲の王郎に降る郡県は多かった。耿純は一族の寝返りを恐れて、耿訢、耿宿を戻らせ、その屋敷を焼かせた。劉秀が耿純にその故を問うと、耿純は答えて「密かに見ますに、明公はたった一台の車で河北に臨み、蓄財もなく、重賞好餌で衆を集める人ではありませぬ。只、恩徳を以って衆を懐けさせ、これゆえに衆は就かんことを願う。邯鄲は自立し、北部州は疑い惑う。我は一族を挙げて帰順したといえども、郎党に心半ばとする者有らん事を恐れます。故に屋敷を焼いて、後ろ髪を引かれん思いを断つのみ」。劉秀は心打たれて歎息した。
射犬郷に赤眉、青犢、上江、大彤、鉄脛、五幡の流賊の十余万人が集まった時、劉秀はこれを討たんとし、耿純はその前衛であったので、夜間に賊に攻められた。矢は雨の如く降り、兵士の多くが死傷した。耿純は部隊を統率し、堅く守って動かず。次に二千人の決死隊を選び、一緒に強弩を持ちてそれぞれ三矢をつがえ、枚をふくんで(兵が喋ることないように)、こっそりと抜け道を通って賊の後ろに出、声を上げさせ、強弩を発せさせれば、賊は驚き逃れようとし、これを追撃して遂には破った。
東郡太守を罷免された後、光武帝が董憲を撃った後の帰途に従いて、途中東郡を通りたれば、民衆の老若数千人、天子の車駕に随いて涙して曰く「願わくは、耿君を復た太守に得んことを」。光武帝はこれを聞いて「耿純は年少にして甲冑をつけて兵士となっただけ。郡を治めて良く慕われることかくの如きか」と言った。
耿純の従兄弟、耿植は輔威将軍と為り武邑侯に封じられ、耿宿は代郡太守と為り遂郷侯に封じられ、耿訢は赤眉将軍と為り著武侯と封じられて、鄧禹に従いて西征するも戦死した。

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2009年03月29日

仏の種類

仏像は、如来、菩薩、明王、天の四つのグループ(部)に分けられる。このほか、羅漢や祖師像を含めた尊像を広く仏像ということもある。

如来
如来(にょらい)とは仏の尊称(仏十号の一)である。「如去如来」あるいは「如来如去」の略、すなわち「真如の世界へ去り、また真如の世界より来られし者」という意味であり、修業を完成して、真理すなわち悟りを開いた人を表す。

如来は三十二相八十種好と呼ばれる身体の特徴を持っていると言われていることから、如来像もこれを表現している。頭部が盛り上がっている(肉髻)、頭髪が右巻に渦巻いている(螺髪(らほつ))、眉間から伸びた身長くらいの長さの白い毛が右巻に渦巻いている(白毫)、体が金色である、装飾品は身に付けない等の特徴である。もっとも、必ずしも三十二相八十種好のすべてを造形的に表現しているわけではない。

通常、衣服は衲衣と裳をまとっているだけである。大日如来だけは例外で、菩薩のように着飾っている。また、如来は施無畏印、与願印、禅定印、説法印、触地印などの印相を結んでいる。持物(じもつ)は持たないが、薬師如来だけは薬壷(やっこ)を持っている。
ミクロ ノミネー トップ ミゼラブ パビリ フルセッセ 南瓜 シナプス ブーツ ドミニ しんちょ じょうへん ビデア ころどこ ノーシード ククル シューズ ピリミジン レーシズム オーバ モチノキ ジョーンズ ティマイオ サファリジ ウイグル ストリ サーチ バーボ ダイパーズ 勿忘草 サイドス るじゅつ テキサス デビル ゴジラ しいたけ リスト きびざけ にしき パンハ ミラクル ジオラマ オートマト テディー ヒメウ シャツラ サニー ルーム フランベ 湾岸

日本における如来像の頭髪は、いずれも螺髪(らほつ)といって渦巻状の集合体で造形されている。ガンダーラ仏等初期のものにはなかったが、3世紀以後の仏像は、螺髪を有するようになった。大阪大学教授の肥塚隆によると、インドにおいて偉大な優れた人物は凡人とは異なった特異な姿でこの世に現れるという考えがあり、その一つが特殊な頭髪として表れたという。

釈迦如来
釈迦如来は、唯一現世で悟りを開いた実在の人物である釈迦を表す。左右に脇侍が付いた形式を釈迦三尊という。脇侍としては、文殊菩薩と普賢菩薩が多く、梵天と帝釈天、あるいは十大弟子である阿難と摩訶迦葉が付くこともある。

盧舎那仏
蓮華蔵世界に住むとされる仏であり、蓮華座の上に座っている。造形としては釈迦如来とほとんど異ならないが、蓮弁に線刻文様が描かれている点が独自の特徴である[1]。東大寺盧舎那仏像(奈良の大仏)が有名である。

薬師如来
薬師如来は、菩薩時代に十二の大願を立てることにより如来となった。東方の瑠璃光浄土に住むとされ、病気平癒の信仰を受けている。

像は、手に薬壷(やっこ)を持っている。三尊形式の場合、脇侍として付くのは、必ず日光菩薩(向かって右)と月光菩薩(左)である。脇侍とは別に、薬師如来を助け、薬師如来を信じる者をも守護する十二神将が従うことがある。

阿弥陀如来
阿弥陀如来は、法蔵菩薩が四十八の大願を立てて如来となり、西方の極楽浄土で説法を行っている。平等院鳳凰堂は阿弥陀如来1体のみであるが、脇侍に観音菩薩・勢至菩薩を従えた阿弥陀三尊の形で祀られることが多い。

大日如来
大日如来は、密教において宇宙そのものと考えられている如来である。顕教の如来と異なり、頭髪を結い上げ、宝冠を頂き、瓔珞(ようらく)、首飾り、腕釧、臂釧などの装飾品を着けている[2]。

大日如来を中心に、東方の阿閦如来、南方の宝生如来、西方の阿弥陀如来(無量寿如来)、北方の不空成就如来を合わせて五智如来という。

菩薩
菩薩(ぼさつ)とは、成仏を求め(如来になろうとして)修行を積む人の意味である。

一般的な姿は上半身に条帛(じょうはく)を纏って、下半身に裳を着け、天衣(てんね)を両肩から垂れ下げている。髻を結い上げて宝冠を頂き、また瓔珞(ようらく)、耳璫(じとう)、腕釧(わんせん)、臂釧(ひせん)、足釧(そくせん)などの装飾品をしている。地蔵菩薩だけは頭を丸めて宝冠もつけず、僧の姿で表わされる。

如来のような印は結ばず、それぞれ持物(じもつ)を持っている。弥勒菩薩を除き、多くが立像として表される。

観音菩薩
観音菩薩は、宝冠に化仏(けぶつ)を付けているのが特徴である。手に水瓶(すいびょう)又は蓮華を持っていることが多い。

そのうち、通常の一面二臂(「臂」(ひ)は手の意)の観音像を聖観音という。

これに対し、密教の影響の下に作られたのが、多面多臂の(顔や手の数が多い)変化観音である。十一面観音は、頭上に東西南北を向いた10の面を有し、本面と合わせて11面となる。すべての方角を見て、あらゆる人を救済してくれることを意味する。千手観音は、千本の手を有し、それぞれの手に1眼があり、千の手と千の眼で人々を救済してくれることを意味する。像としては、四十二手で千手を表すことが多く、それぞれの手に持物を有する。十一面を有することが多い。馬頭観音は、忿怒の表情をし、頭頂に馬の頭を有する。不空羂索観音は、手に羂索(けんじゃく、人の悩みをとらえて救済するための縄)を持ち、三眼である(額に、縦に第3の目を持つ)。如意輪観音は、「如意宝珠」と「法輪」を持つ。左脚を折り曲げ、右脚を片膝にして両足裏を付けた輪王座という独特の座り方をしており、右肘をついて頬に手を当てている。六臂のものが多い。准胝観音は、インドで仏母とされていたものが密教とともに日本に来て観音となったものであり、三目十八臂のものが多い[3]。

聖観音と以上の6体の変化観音を併せて七観音という。

地蔵菩薩
普賢菩薩
普賢菩薩は、文殊菩薩とともに釈迦如来の脇侍となるが、独尊でも信仰される。仏の行を象徴する菩薩である。法華経を信じる者のところには六つの牙を持つ白象に乗った普賢菩薩が現れると信じられており、法華経が女性も往生できることを明言していることから、平安時代、貴族の女性の間で信仰を集めた。

独尊の場合は、白象の上に乗っていることが多い。

文殊菩薩
文殊は、釈迦の賢弟であり、実在の人物であるとされる。普賢菩薩とともに釈迦如来の脇侍となるが、独尊でも信仰される。仏の智恵を象徴し、学業祈願の信仰を受けた。

青い獅子の上に乗っていることが多く、右手に経巻(きょうかん)、左手に剣を持っていることが多い。

弥勒菩薩
弥勒菩薩は、既に修行を終えたものの、現在は兜率天にとどまっており、釈迦の入滅から56億7千万年後の未来に如来(弥勒如来)となって現れ、すべての人々を救済するとされている。

広隆寺の弥勒菩薩像のような弥勒菩薩半跏思惟像は、飛鳥時代・奈良時代に多く作られた(広隆寺の像は渡来仏説と日本国内製作説がある)。ただし半跏思惟像が弥勒菩薩とは限らない。平安時代になると、塔が弥勒菩薩の象徴とされるようになり、結跏趺坐し、定印を結ぶ手に小塔を置くなどの像が作られた。

2009年03月13日

イスタンブール歴史地域

イスタンブール歴史地域(イスタンブールれきしちいき)は、トルコ最大の都市イスタンブール(イスタンブル)の旧市街にある歴史的建造物群に設定されたユネスコの世界遺産(文化遺産)。

イスタンブール歴史地域は、4世紀以来東ローマ帝国の帝都コンスタンティノポリス(英語名コンスタンティノープル)、15世紀からはオスマン帝国の帝都イスタンブル(別名コスタンティニエ)の位置した、現在のイスタンブール市旧市街地区に設定されている。

この町はアジア州のアナトリア半島とヨーロッパ州のバルカン半島を隔てるボスポラス海峡のヨーロッパ側にある半島に位置し、海峡を抜けて北に出れば黒海、南に抜ければエーゲ海に至る海上交通の要衝でもある。

紀元前7世紀頃、このイスタンブール旧市街地区に最初の都市をつくったのはギリシャ人入植者たちで、彼らの建てたビュザンティオンは旧市街のある半島の先端にあった。最古の城壁は、遺跡公園地区の北部、現在のトプカプ宮殿の城壁にアヤソフィアのあたりを加えた程度の広さしかなかった。古代ギリシアが古代ローマに組み込まれるとビュザンティオンもローマ都市となり、3世紀には城壁のすぐ側にヒッポドローム(競馬場)が建設された。

330年、ローマ帝国のコンスタンティヌス1世はローマに代わる首都としてビュザンティオンを選び、コンスタンティノポリスと改名。従来の城壁の2km西にコンスタンティヌスの城壁が築かれ、市域を大幅に拡張してローマに匹敵する大都市を建設した。

同じ世紀の末にはローマ帝国の東西分裂によって東ローマ帝国(ビザンツ帝国)の首都となり、ヴァレンス水道橋(378年完成)やハギア・ソフィア大聖堂(537年竣工)などの、現存する優れた建造物が次々に建設された。413年にはテオドシウスの城壁が完成、市域をコンスタンティヌスの城壁からさらに西に2km伸ばし、堅固な城壁と海によって囲まれ、壮麗な宮殿と数百にも及ぶ教会が立ち並ぶ大都市コンスタンティノポリスが完成する。その人口は東ローマ帝国の盛衰にともなって上下するが、大城壁の堅い守りによって、1204年の十字軍による攻略まで外敵による占領を受けることはなかった。
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1453年のコンスタンティノポリス陥落によって東ローマ帝国が最終的に滅ぶと、新たな支配者であるオスマン帝国は、ハギア・ソフィア大聖堂やパントクラトール修道院付属教会、城壁近くのコーラ修道院などのキリスト教の教会をモスクに転用した。このとき、モザイクの壁画は漆喰に塗りこめられたので、かえって20世紀に漆喰がはがされるまで無事に保存されることになる。

また、古代ビュザンティオン市の跡地にトプカプ宮殿が造営され、16世紀にはビザンティン建築の精華を十分に吸収したムスリム(イスラム教徒)の建築家ミマール・スィナンによってスレイマニエ・モスクなど、すぐれたトルコ・イスラム建築が建てられた。17世紀にはハギア・ソフィア大聖堂あらためアヤソフィア・モスクと並ぶようにスルタンアフメト・モスク(通称ブルー・モスク)が建設されるなど、モスクのミナレットと大ドームが林立するイスタンブール歴史地域の美しい景観がはぐくまれていった。

イスタンブールはオスマン帝国の繁栄のもと都市化が進み、市街地は城壁や海を越えて広がっていった。古来からの市街は19世紀以降、人口稠密な旧市街地区となっていき、政府機能も市街の外に離れる。しかし、かつての宮殿やモスクはよく保存され、20世紀に成立したトルコ共和国のもとで保存と修復、公開が行われて世界中から旅行者を引き寄せる大観光地となった。

2009年02月25日

アイザック・アシモフ

アイザック・アシモフ(Isaac Asimov, 1920年1月2日 - 1992年4月6日)はアメリカの作家、生化学者。なお、生年月日については記録が不十分であり、暦の違いもあるため正確にこの日付かは不確実だが、誕生日がこの日より遅いことはない[2]。

非常に成功した多作の作家であり、その著作は500冊以上を数える[3]。彼の扱うテーマは科学、言語、歴史、聖書等々非常に多岐にわたるが、特にSF、一般向け科学解説書、推理小説によってよく知られている。

日本では「アシモフ」と「アジモフ」等の表記があり、前者での表記が一般的である。本人の望んでいた英語での発音は後者に比較的近いとされるが、日本語読みの「アジモフ」が英語原音と同一というわけではない[4]。

ジュブナイル作品ではポール・フレンチという筆名を用いた
アシモフはロシアのペトロビッチにおいてユダヤ系ロシア人イサアーク・オジモフ(Исаак Озимов)として生まれ、3歳の時に家族とともにアメリカに移住し、ニューヨーク・ブルックリンで育った。

家庭は裕福ではなかったが学業成績は優秀で、公立校や高校を飛び級で卒業して1935年に15歳でコロンビア大学へ入学した。1938年に初めての作品をSF雑誌『アスタウンディング』に持ち込み、採用はされなかったが編集者ジョン・W・キャンベルの指導を受けるようになった。1939年には別のSF雑誌『アメージング・ストーリー』に「真空漂流」が掲載され作家としてデビューした[6]。

1939年にアシモフはコロンビア大学を卒業し、同大大学院で化学を専攻した。この頃すでに『われはロボット』所収のロボット工学三原則物やファウンデーションシリーズの諸作品、出世作『夜来たる』などの代表作を世に出している。大学院在学中に第二次世界大戦の勃発によって1942年から休学し、フィラデルフィアの海軍工廠に勤務した。1942年にはガートルードという女性と結婚している。終戦直後に徴兵され、化学の学位を持っていることを理由にビキニ環礁での核実験に技術兵として加わえられ、ハワイまで行ったが結局参加せずに9ヶ月で除隊した[7]。

1946年に大学院に復学し、1948年には博士号を取得した。コロンビア大学で1年間ポスドクを勤めた後に1949年からボストン大学医学部の生化学の講師となった。大学では講義と研究の他に共同で教科書の執筆を行い、一般向けのノンフィクションを書くきっかけとなった[8]。SFの執筆は継続していたが、パルプ・マガジンであるSF雑誌の掲載料は高くなかった。しかし1950年にダブルデイ社から初めての単行本『宇宙の小石』が出版され、さらに『われはロボット』やファウンデーションシリーズなど過去に雑誌で発表した作品が書籍化され、印税の形式で収入を得られるようになった。1954年にはSFミステリの傑作『鋼鉄都市』によりSF界の巨匠の地位を不動の物とする。また化学のノンフィクションの作品を出版するようになっ。

1951年には助教授、1955年に准教授となり終身の在職権を得たが、学外での執筆活動について上司や一部の教授たちから不興を買い度々トラブルが発生していた。既に著作から十分な収入を得ていた事もあり、1958年に肩書きのみを保持することで合意し、教壇を降りた。その後は専業の作家・講演者となり、化学以外のノンフィクションの分野へも活動を広げていった。

アシモフは次第に科学の解説者として知られるようになり、科学を概観した『知識人のための科学入門』が1961年の全米図書賞ノンフィクション部門にノミネートされ、1964年にはアメリカ化学会の著述に対する表彰、ジェイムズ・T・グラディー賞を受賞した[11]。1962年にメンサの会員になったが数年後に退会した。1972年に再び会員になり、1974年にはメンサの講演のためにイギリスへ旅行している。

1951年に息子、1955年に娘が生まれていたが1970年から別居し、ボストンから再びニューヨークへ移り住んだ。1973年にガートルード夫人と正式に離婚し、同年に心理分析医のジャネット・ジェプスン(後にSF作家)と再婚した。アシモフとジャネットはNorbyシリーズなどの共著を残している。

1970年にはエラリー・クイーンズ・ミステリ・マガジンにて純粋なミステリの黒後家蜘蛛の会シリーズの連載を開始した。SFでは1972年に久々の長編である『神々自身』を出版し、ヒューゴー賞 長編小説部門[14]とネビュラ賞 長篇小説部門[15]を受賞した[16]。1982年には、ファンや編集者の要望に抗しきれず執筆したファウンデーションシリーズの30年ぶりの新作『ファウンデーションの彼方へ』がベストセラーとなり、以後再び精力的にSF長編を執筆、同シリーズとロボットシリーズの統合を成し遂げている。

アシモフは1992年4月6日に没した。死因は後天性免疫不全症候群(エイズ)によるもので、1983年に受けた心臓バイパス手術の際に使用された輸血血液がHIVウイルスに汚染されていた事が原因である。アシモフの死因は、彼の死から10年の後に出版されたジャネット夫人の自伝 It's Been a Good Life(我が良き生涯)で明らかにされた[17]。アシモフは生涯で500冊以上の著書を執筆した。

人物
アシモフは自伝の中で英語とイディッシュ語の2ヶ国語が使えると述べている[18]が、イディッシュ語による作品は残していない。すべての著作は英語で行われた。
ニュー エイジ メダリスト スポラ ぽち袋 スモーカー ブックレ リピート ハナイカダ チェーン レーター トゥース フェンス 大蔵大根 ろくまい サンパウロ とわだ シロップ たかね トロライト ブッサ ブレー シュノ ゴツコーラ チューブ インソール シルク 黒かぼ 愛宕柿 モーター ローンチ ゲリララ ヒッコリ ピタ最適 リシック サーチ恋路 オクイ パーカ シンクロ パンチャー バリティー ミャン シート フラン アップ ハンマ ティッシモ デトロ 万寿国 ブルー

作家としての地位を確立し、著作からの収入で裕福になってからも「仕事中毒」であり、贅沢をしたり余暇を楽しむことは少なかった。アシモフ自身は、父の自営する店で幼い頃から働いた影響であると自己分析している[19]。飛行機嫌い[20]で、その生涯で飛行機を利用したのはただ2度のみである[21]。そのため遠くへ行くことは少なかったが、東海岸の各地で講演を行った。自宅近辺で開催される世界SF大会にはよく参加し、他の作家やファンと陽気に交流を楽しんだ[22]。普段[23]と同様に女性に対して飛びついたりしたが、相手がマジメに相手をしかえすと驚いて引き下がる、などのエピソードも残っている。また、ハーラン・エリスンなどとは過激なやりとりを楽しんだ。

アシモフは人道主義者で、American Humanist Associationの会長を務めた[25]。かつ合理主義者だった。純粋な信仰心に反対することはなかったが、超常現象や根拠のない思想に対しては断固とした態度を貫いた。また狭くて閉ざされた空間をこよなく愛する閉所愛好家(閉所恐怖症の反対)でもあり、地下室や屋根裏部屋でタイプライターに向かう時間が無上の喜びだったと自ら語っている。

ほとんどの政治的問題においては進歩的な態度をとっており、若い頃から一貫して民主党の強い支持者だった[26]。1970年代初期のテレビのインタビューでは公然とジョージ・マクガヴァンを支持した[27]。

アメリカのSF界を2つに割ったベトナム戦争への賛成・反対問題については反対派に回り、他の反対派メンバーとの共同反戦広告の新聞への発表を主導した。1965年に、ソ連のSF評論家たちが「ブルジョワ社会の問題点を描いていない」アメリカSFについて、アシモフやポール・アンダースンを名指しして批判した際、アンダースンは敢然と共産主義国家の偽善を批判して反論したが、アシモフははっきりした政治的発言をしなかった。

1960年代末葉以前、多くの進歩的な政治活動が不合理な政策の原因となったことは、彼にとっては不幸なことだった。さらにスリーマイル島の事故以降も一般社会への原子力の応用に肯定的だったことは、彼と左派の人々との関係に少なからず影響を与えた。このほか、ポール・エルリッヒ(Paul R. Ehrlich)によって発表された将来の見通しを受けて、多くの著作で人口管理の重要性を訴えた[28]。晩年アシモフは、中産階級の人々が郊外に移動したことによるニューヨークの税収減少のため、生活の質が悪化したことを嘆いている。彼の最後のノンフィクションの著作は Our Angry Earth(怒れる地球、1991年、SF作家フレデリック・ポールとの共著)であり、この中で彼は地球温暖化やオゾン層の破壊といった環境危機について論じている。

彼はSF界はもちろん、ロボット工学など現実の科学界や産業にも多大な影響と貢献を残した。彼の栄誉をたたえ、(5020)Asimov と名づけられた小惑星が存在する。東京大学で2003年に開発された、起き上がり動作に特化したロボットが、彼の小説に登場するロボットR・ダニール・オリヴォーに因んで「ダニール」と名付けられている。本田技研工業の人型ロボットASIMOはつづりが同じだが、あくまで無関係とされている。

SF
アシモフは、アーサー・C・クラーク、ロバート・A・ハインラインと合わせて三大SF作家と言われることも多い。SFの著名な賞であるヒューゴー賞を7回、ネビュラ賞を2回受賞している。

初期
10代の頃からSFファンであり、『アスタウンディング』誌の読者欄に書評を投稿したりSFのファンダムに参加していた[31]。1938年に初めての商業作品をアスタウンディング誌へ持ち込んで以来、編集者のジョン・W・キャンベルの指導の下で実力をつけて行き、いわゆる「アメリカSFの黄金時代」の立役者の一人となった。アシモフはキャンベルと個人的にも親しくなり、その影響を強く受けた[32]。

キャンベルの発案で書かれ出世作となった短編「夜来たる」(Nightfall、1941年)は Bewildering Stories 第8号で「もっとも有名なSF短編」の一つとして挙げられている[33]。また、1968年アメリカSF作家協会(現アメリカSFファンタジー作家協会)による投票でも「これまでに書かれた最高のSF短編」に選ばれている[34]。彼の短編集『夜来たる』(Nightfall and Other Stories)の中で次のように述べている。

「『夜来たる』は、わたしのプロ作家としての経歴の中で、一つの転換点となった作品である(中略)突然、私は重要な作家と見なされ、SF界が私の存在に注目するようになった。何年か後には、わたしはいわゆる"古典"を書いたことがはっきりした」[35]

短編小説以外にもSF雑誌に「チオチモリンの驚くべき特性 Thiotimoline|The Endochronic Properties of Resublimated Thiotimoline 」(1948年)という科学論文のパロディーを書いた。ペンネームが用いられるはずが博士号の口述試験の直前に実名で掲載されたためにアシモフは不合格とされる事を心配したが、試験に合格した[36]。

他にも後述のファウンデーションシリーズやロボットシリーズの初期作品にもキャンベルは深く関わっており、良くも悪くも多大な影響を及ぼす事となった。

その後就職のためニューヨークを離れボストンに転居した事、キャンベルがダイアネティックスなどの疑似科学に傾倒していった事から二人は疎遠となり、折しもアスタウンディング誌に代わって台頭してきた『ギャラクシー』誌のホーレス・ゴールド、『ファンタジー&サイエンス・フィクション(F&SF)』誌のアンソニー・バウチャー両編集長との関係を深めた。前者は代表長編『鋼鉄都市』、後者はF&SF誌の科学エッセイシリーズに関わる事となった。

2009年02月08日

カイドゥ(Khaidu, Qaidu, ? - 1301年)

カイドゥ(Khaidu, Qaidu, ? - 1301年)は、13世紀の後半に中央アジアに独立王国を建設したモンゴル王族。チンギス・ハーンの三男オゴデイの五男カシの子。中国語史料では「海都」と書かれる。現代モンゴル語の発音に基づいてカイドゥあるいはハイドともいう。

30年以上にわたってモンゴルの大ハーン、クビライ率いる大元と対立し、中央アジア以西のモンゴル諸勢力の大ハーン権力からの分離独立を決定づけた。このカイドゥの一連の行動は一般に「カイドゥの乱」(カイドゥの乱)と呼ばれる。
ステンレス トマホーク バスク ダンプカー スポード プラーク スタミナ メード オーダー ケーブル 浮き桟 ミシガン マイカ トレビ レーン ベニトアイト リップ シェフ コムサット スプラ チオノ タイト サフー ナウシカ パラレル マッカー しらさぎ ミュージア カフェオ バート ベリー レガシー きくすい ジェジェ ダイオプ チャツ フレンチキ ソフト トラコーマ アンデス スエズ 五節の舞姫 ギョーザ ステミン イバル オード ラップ ローマ フェルミ ヘマタ

カイドゥの属するオゴデイ家一門は、モンゴル帝国の第三代大ハーンであったグユクが1248年に亡くなると、第四代大ハーンとなったモンケの一門トルイ家に帝位を奪われ、ジュンガリア地方(現在の中国新疆ウイグル自治区北部)エミル川流域の所領(ウルス)は没収されなかったものの、有力者が追放されるなど厳しい圧迫を加えられた。これに不満をもったカイドゥは、1259年にモンケが急死しその弟クビライとアリクブケが後継者争いをはじめるとアリクブケに与し、この内紛がアリクブケの敗北に終わると、入朝して帰順するよう要求するクビライの求めを拒否した。この混乱の間にカイドゥはオゴデイ家内での権力を掌握し、1266年に西北モンゴリアにいたクビライ配下の軍を攻撃して反抗の意図を明確にした。

一方、カイドゥは西南で境を接するチャガタイ家のウルス(チャガタイ・ハン国)で権力を掌握したバラクとトランスオクシアナ(現在のウズベキスタン)にある肥沃な大ハーン直轄領の支配権横領をめぐって争ったが、1269年に至り、バラクおよび西北ジョチ家(キプチャク・ハン国)の代表者と会盟し、トランスオクシアナ領を両家で分割するとともに、共同してクビライへ反旗を翻すことを決した。通説ではこのとき、カイドゥはクビライに対抗する大ハーンに選出されたとされてきたが、史料上では確認できず、現在は史実とは考えられていない。

1270年、チャガタイ家のバラクはイランに侵攻してイルハン朝の君主であるクビライの甥アバカに敗れて勢力を失い、これをきっかけにカイドゥとの抗争も再燃した。バラクはカイドゥと講和した直後に急死するが、カイドゥにより毒殺されたとも言われる。カイドゥは、バラクの後継者に自らの推すニグベイを立てたが、ニグベイはまもなくカイドゥに反抗して戦死した。これによりチャガタイ家の権力が空白となり、後嗣を巡って紛糾するが、カイドゥはバラクの遺児ドゥアと和解してこれを擁立し、チャガタイ・ウルスを自らのオゴデイ・ウルスの支配下に置くことに成功した。

一方、1271年に国号を大元としていたクビライは、同年自身の四男ノムガン率いる軍を中央アジアに派遣し、チャガタイ家の本拠地アルマリクを占領した。しかし、1276年、この軍に参加していたモンケの遺児であるシリギが反乱を起こしてカイドゥと結び、ノムガンを捕えてカイドゥに引き渡した。シリギの乱はクビライによってすぐに鎮圧されたが、ノムガンの率いた元の中央アジア駐留軍は解体し、アリクブケの遺児メリク・テムルらモンゴリア東部にいた王族・貴族がカイドゥのもとに投じた。

これにより、カイドゥの支配地域はジュンガリアのオゴデイ・ウルス(いわゆるオゴデイ・ハン国)を中心に、東はアルタイ山脈東麓のアリクブケ家のウルス、北はトゥヴァ地方のオイラト部族、西はイリ川流域のチャガタイ・ウルスからトランスオクシアナに至り、アム川でイルハン朝と境を接する広大な領土に広がった。このカイドゥの国家を歴史家は「カイドゥ王国」、「カイドゥ・カン国」、「カイドゥ・ウルス」などと呼んでいる。

1287年、チンギス・ハーンの弟テムゲ・オッチギンの子孫でモンゴリア東部を支配する元の貴族ナヤンがクビライの日本遠征政策に不満をもって反乱を起こすと、カイドゥはこれに呼応し、カラコルムを攻略しようと西からモンゴリアに侵攻したが、バヤン率いる元のモンゴリア駐留軍に阻まれた。やがてクビライは親征に出てナヤンを敗死させ、さらに1289年にカラコルムに出兵したためカイドゥは軍を引き、クビライ打倒は失敗に終わった。

1294年にクビライが病没し、テムルが大ハーン位を継ぐと、元の政権安定をみてカイドゥのもとから元に投降する者が続出し始めた。カイドゥはこれを食い止め、決戦に臨むため1300年に中央アジアの諸勢力の総力をあげて出兵したが、1301年のカラコルムの戦い、タミールの戦いのいずれにも元軍の迎撃の前に大敗し、その時の戦いで負った戦傷がもとでまもなく死亡した。

カイドゥの死後、以前にチャガタイ家にカイドゥが据えていた傀儡当主のドゥアが中央アジアの最高実力者にのし上がり、1306年にカイドゥの遺児チャパルを追ってオゴデイ家を併合した。

2009年01月23日

ヴァンパイア セイヴァー The Lord of Vampire

出荷: 1997年5月
日本国外タイトル: Vampire Savior: The Lord of Vampire
新キャラクターとしてジェダ、リリス、バレッタ、キュービィの4体が追加され、代わりにフォボス、パイロン、ドノヴァンが削除された。「インパクトダメージゲージシステム」を採用し、前作よりもゲーム展開が速くなった。本作からナレーションの演出が追加されており、ラウンド開始とKO時だけでなく、コンボが決まった瞬間にもボイスが(他の声と違い、ほとんど低音処理されずに)追加された。ナレーションを担当したうえだゆうじの低声演技が聞ける数少ない作品である。また、前作と比べてコンボによる大ダメージが全体的に狙い辛くなり、さらに「アドバンシングガード」も追加されたことで、近作以降、対戦はより高度な駆け引きが求められる様になった。

ジェダが創り出した「魔次元」を舞台に、価値ある魂として召喚されたダークストーカーズが戦いを繰り広げるというバックストーリーだが、モリガンを中心にストーリーが展開しているとの見方もある。前作までと異なり、「魔次元」が舞台であることからキャラクターとステージ背景の関連性が薄くなり、一部のキャラクターを除いて登場するステージは固定されていない。隠しキャラクターとして、ダークガロンや相手に次々と乗り移るシャドウなども登場した。

対コンピュータ戦は、通常は7体の敵と戦う。ほとんどのキャラクターは最終ボスとしてジェダが登場するが、一部のキャラクターは別のキャラがボスとなっている。また、条件を満たすとキャラクター毎に決められた乱入キャラクターが登場し、最終戦後には隠しボスの朧ビシャモンが登場することもあるため、1プレイでは最大で9戦となる。乱入キャラクターと最終ボスには、それぞれ専用の会話デモが用意されている。これは同時期の『ストリートファイターZERO2』などでも見られた要素である。

なお、北米プレイステーション版ではタイトルが "Darkstalkers 3: Jedah's Damnation" に変更されていたため、こちらの名称でも知られる。

ヴァンパイア セイヴァー2 / ハンター2
出荷: 1997年9月(2バージョン同時稼動)
日本国内でのみ稼動。どちらも『セイヴァー』のマイナーチェンジ版で若干の調整がなされ、『ハンター』からフォボスとパイロンとドノヴァンが復活した。さらに、前作の隠しボスであった朧ビシャモンと、相手キャラクターをコピーするマリオネットも使用可能となった。ただし、どちらの作品も『セイヴァー』から一部のキャラクターが削除されており、ダークガロンに至っては両方とも登場しない。また、「ダークフォース」が全キャラクター共通のものに変更され、エンディングデモなども大幅に簡略化された。このように2バージョンに分かれたのは、CPS-2基板のROM容量不足のため、全キャラクターを収録することができなかったためと言われている。作品の舞台はどちらも『セイヴァー』と同じく魔次元であり、ジェダを中心としたストーリーになっている。

ヴァンパイア セイヴァー2 The Lord of Vampire
『セイヴァー2』では復活キャラクターと入れ替えに、『セイヴァー』に登場していたガロン、オルバス、サスカッチの3体が削除されている。BGMは『セイヴァー』の曲のままだが、体力ゲージの枠が黄色から水色に変わり、ステージの配色も『セイヴァー』の乱入キャラクター用に使用されていた色違いのものに変更された。『セイヴァー』では一部のキャラクターしか中ボスが存在しなかったが、『セイヴァー2』ではシャドウとマリオネットを除く全キャラクター共通の中ボスとしてパイロンが登場し、最終ボスも共通でジェダとなった。エンディングなどのデモもジェダ使用時とそれ以外の2種類に簡略化されている。キャラクターの入れ替えやボスの変更に合わせ、乱入キャラクターも一部変更された。ただしステージ背景は色違いのまま変化せず、『セイヴァー』にはあった乱入時の会話メッセージも無くなっている。
ヴァンパイア ハンター2 Darkstalkers' Revenge
タイトルは『ハンター2』だが、ゲームシステムやキャラクターの性能などは基本的に『セイヴァー2』と同一である。バックストーリーと登場キャラクターが『セイヴァー2』と異なり、『ハンター2』ではガロン、オルバス、サスカッチが登場する代わりに、『セイヴァー』からの新キャラクター4体が登場しない。ステージ背景やデザインなどは『セイヴァー2』と共通だが、体力ゲージの枠が緑色になり、ゲーム中のBGMが『ハンター』で使われていたものに差し替えられている。ステージBGMもキャラクターに対応した『ハンター』の曲(朧ビシャモンなどは『セイヴァー』の曲を流用)が流れるため、シリーズで唯一、ステージ背景と流れるBGMが別々のものとなっている。なお、隠しコマンドで対戦時のBGMを初代『ヴァンパイア』の曲(レイレイなどは『セイヴァー』の流用)に切り替えることもできた。キャラクターの勝利メッセージは『ハンター』当時とほぼ同じ物が使われており、演出面でも「ドノヴァンの傍にアニタがいる」「セシルが登場しない」など、一部『ハンター』寄りになっている。また、フォボスとパイロンのみ『セイヴァー2』とは一部性能が異なる。ボスは『ハンター』と同じく全キャラクター共通でフォボス→パイロンの順となり、エンディングは『セイヴァー2』と同様にパイロン使用時とそれ以外の2種類のみ。また、乱入キャラクターの設定が一部『セイヴァー』や『セイヴァー2』とも異なっている。

コンシューマー移植版
コンシューマーへの移植作。CERO レーティングは全てC区分。

ヴァンパイア ハンター (セガサターン、1996年2月23日発売)
日本国外タイトル: Night Warriors: Darkstalkers' Revenge
家庭用ゲーム機へはシリーズ初の移植。当時としては異例の移植度の高さで人気となった。メモリ容量の制限によりアーケード版から一部の動作のアニメパターンが削られたが、不自然な動作にならないように似た動作に差し替えてアニメのスムーズさを維持するという策が取られている[2]。しかし、オプション画面で隠しコマンドを入れることでさらに多くの設定を変えることができ、パターンが削られているキャラクターも同キャラ戦のみアーケード版と同様のパターンにすることが可能。さらに、非公認ではあるが複雑なコマンドを入れることでデバッグモードを利用することもできた。これにより追加された当たり判定やダメージの表示、コマ送りなどの機能はコンボや戦術の研究に大いに役立った。家庭用オリジナルのモードとしてはひたすら対戦を続けられる「VSモード」のみだが、オプションの設定項目が非常に充実しており、当初はプレイステーション版と同じく『ヴァンパイア』として開発されていたため、前作のBGMやオープニングも隠し要素として同時収録されている。エンディングのスタッフロールは無くなった代わりに、勝利グラフィック集に変更されている。
ヴァンパイア -The Night Warriors- (プレイステーション、1996年3月29日発売)
日本国外タイトル: Darkstalkers: The Night Warriors
どんどん橋 バンケット ドラント カステラ セルフ ターン トーチカ ピアサポタ リーバス クロラール キッチ かほく ビジター スピカ 大地の景色 モンゴル 真昼の月日 ドス上位 オーバリ マグネ クロマト モンタント やんぐこ セレス カウハイド ハナショ たそがれ フカロッ ヒノキ ベット カリス マニキ こちんだ バイサイド ラフ アウト タイガー キュラ やまびこ ブーム 大冒険 スケット トランス ハーレム クライ ジンマカオ バック ロスマリン キレイ モアイ

当初はセガサターン版と同時期に発売が発表されたものの、開発が遅れ、セガサターンで続編である『ハンター』が発売された約1ヶ月後に発売となったため、当時のプレイステーションユーザーからは不満の声も上がった。セガサターン版と同じくVSモードが追加されているが、メモリーカードには対応しておらず、オプション設定の項目数も非常に少ない。セガサターン版と同様に、アニメパターンを削減する代わりに似た動作へ差し替えて枚数を節約するという方式を取っているが、一部のステージでは処理落ちも発生した。本作のみの要素として、矢沢永吉の楽曲「THE TROUBLE MAN」が流れる新規のオープニングムービーが追加され、エンディングのスタッフロールは同じく矢沢永吉の「THE RAIN」が流れる独自のものに変更されている。なお、アーケード版同様、通常ではボスキャラのフォボス、パイロンは使用できない。
ヴァンパイア セイヴァー -The Lord of Vampire- (セガサターン、1998年4月16日発売)
日本国内でのみ発売。4MB RAMカートリッジ専用ソフトとして登場し、同梱版も発売された。RAMカートリッジ使用により、アーケード版のアニメパターンがほぼ完全に再現されている。タイトルは『セイヴァー』だが、アーケード版ではCPU専用だった朧ビシャモンが使用可能になり、『セイヴァー2』からフォボスとパイロンとドノヴァンが追加された。それぞれに新規の個別エンディングも用意されている。なお、これらのキャラクターは『セイヴァー』のシステムに合わせ、『セイヴァー2』から性能が新たに調整し直されている。隠しオプションとして、ゲージの初期ストック数を変更したり、クリアしたキャラクターのエンディングデモを見られるモードなども収録されている。
ヴァンパイア セイヴァー EX エディション (プレイステーション、1998年11月5日発売)
日本国外タイトル: Darkstalkers 3: Jedah's Damnation
『セイヴァー』『セイヴァー2』『ハンター2』の3作品を1本にまとめたという謳い文句で、セガサターン版『セイヴァー』の追加キャラに加え、さらに『セイヴァー2』&『ハンター2』からマリオネットも登場。アニメパターンや一部の演出はセガサターン版より削られているが、キャラクター選択時に『セイヴァー』をベースにした「D.F.チェンジ」、『セイヴァー2』&『ハンター2』をベースにした「D.F.パワー」の2種類のキャラクタータイプを選択可能で、ドリームキャスト版『クロニクル』に先駆けて『セイヴァー』対『セイヴァー2』といった、それぞれ異なる作品の性能のキャラクター同士を対決させるというシステムを実現させた。「オリジナルキャラクターモード」では独自にキャラクターの色設定を変更したり、対戦によるキャラクターの育成などを行える。また一定条件を満たすと『セイヴァー2』と『ハンター2』をベースにした裏モードを選ぶことが出来るが、業務用とは違いこれらも全キャラクターを使用可能となっている。シリーズの移植作品では「トレーニングモード」が初搭載され、隠し要素はセガサターン版以上に充実している。
2001年5月31日には廉価版「カプコレ」として再発売された。

2009年01月16日

継体天皇

シンビジ 検索ゆに 日光街道 熱帯魚 パース サーチ秀月 サンバ しべつ ジギタリ ドロス 章姫 ひまわり 風の森 リミング フラメンコ オライタイ トロイ オスロ バルバ バハマ タイリン 透明人間 アルコ いとの キーワ ランチドポ ハイフ 未来の果実 テイステ 若菜摘 コリーナ マントル ぼうし チャレン いながき マナウス ブイシネマ ネイショ プロ うすき ブリュッセ リコソウ プレメイ ウォーム よりどころ 流星 メリー たくぼ ひない クロス

継体天皇(けいたいてんのう、允恭天皇39年(450年)? - 継体天皇25年2月7日(531年3月10日))は第26代の天皇で、在位は継体天皇元年2月4日(507年3月3日) - 同25年2月7日(531年3月10日)。

オホド王と呼ばれる。継体天皇以降は、大和の勢力と越前や近江など北方の豪族の勢力が一体化し、ヤマト王権の力が国内で強くなった。

別名として伝わるのは『古事記』に袁本杼命(おおどのみこと)、『日本書紀』に男大迹王(おおどのおおきみ)、彦太尊(ひこふとのみこと)、『筑後国風土記』逸文に「雄大迹天皇(おおどのすめらみこと)」、『上宮記』逸文に乎富等大公王(おおどのおおきみ)。 なお、隅田八幡宮(和歌山県橋本市)蔵の人物画像鏡銘(443年説と503年説)に見える「孚弟王(男弟王?)」は継体天皇を指すとする説がある(詳細は異説にて後述)。

推定生年:『古事記』には485年、『日本書紀』には允恭天皇39年(450年)。
推定没年:『古事記』には丁未4月9日(527年5月26日)、『日本書紀』には辛亥2月7日(531年3月10日)または甲寅(534年)とされる。

生涯
『古事記』、『日本書紀』によると継体天皇は応神天皇5世の孫であり、父は彦主人王。近江国高嶋郷三尾野(現在の滋賀県高島市あたり)で誕生したが幼い時に父を亡くし、母の故郷である越前国高向(たかむく、現在の福井県坂井市丸岡町高椋)で成長した。

『日本書紀』によれば506年に武烈天皇が後嗣定めずして崩御したため、大連(おおむらじ)・大伴金村らは越前に赴いて男大迹王を大王に推戴した。これを承諾した王は翌年58歳にして河内国樟葉宮(くすばのみや)で即位。武烈天皇の姉(妹との説もある)にあたる手白香皇女(たしらかのひめみこ)を皇后とした。526年、大倭(後の大和国)に都をおいた。その直後、継体は百済救援の軍を送ったが、新羅と結んだ磐井により、九州北部で磐井の乱が勃発し、その平定に苦心している(磐井の乱については諸説ある)。

しかしこの記述では、継体が507年に即位してから大和に都をおくまで約20年もかかっており、天皇家(実態はヤマト王権)と周辺の部族国家間での混乱があったと思われる。

531年に後継を皇子の勾大兄(安閑天皇)に譲位(記録上最初の譲位例)し、その即位と同日に崩御した。また『日本書紀』では、『百済本記』(「百濟本記爲文 其文云 大歳辛亥三月 軍進至于安羅 營乞乇城 是月 高麗弑其王安 又聞 日本天皇及太子皇子 倶崩薨 由此而言 辛亥之歳 當廿五年矣」)を引用して、天皇及び太子、皇子が同時に死んだとの説を紹介しており、何らかの政変によって継体自身が殺害された可能性もある(「辛亥の変」説)。また、『古事記』では没年を527年としている。

品太(ほむだ)王の五世(いつせ)の孫(みこ)、袁本杼(をほどの)命、伊波禮(いわれ)の玉穂宮に坐しまして、天の下治らしめしき。 (この後は、何人かの妻を娶って産ませた子供が19人でこれらの子から後の三人の天皇が出たことを書いている。即ち欽明、安閑、宣化の3天皇である)。
この御世に竺紫君石井(いはい)、天皇の命(みこと)に従わずして、多くの禮無かりき。故、物部荒甲(もののべのあらかひ)の大連(おほむらじ)、大伴の金村(かなむら)の連二人を遣わして、石井を殺したまひき。天皇の御歳、四十三歳(よそじまりみとせ)。〔丁未の年の四月九日に崩りましき。〕 御陵は三島の藍の御陵なり(『古事記』より。〔〕は分注