アイザック・アシモフ(Isaac Asimov, 1920年1月2日 - 1992年4月6日)はアメリカの作家、生化学者。なお、生年月日については記録が不十分であり、暦の違いもあるため正確にこの日付かは不確実だが、誕生日がこの日より遅いことはない[2]。
非常に成功した多作の作家であり、その著作は500冊以上を数える[3]。彼の扱うテーマは科学、言語、歴史、聖書等々非常に多岐にわたるが、特にSF、一般向け科学解説書、推理小説によってよく知られている。
日本では「アシモフ」と「アジモフ」等の表記があり、前者での表記が一般的である。本人の望んでいた英語での発音は後者に比較的近いとされるが、日本語読みの「アジモフ」が英語原音と同一というわけではない[4]。
ジュブナイル作品ではポール・フレンチという筆名を用いた
アシモフはロシアのペトロビッチにおいてユダヤ系ロシア人イサアーク・オジモフ(Исаак Озимов)として生まれ、3歳の時に家族とともにアメリカに移住し、ニューヨーク・ブルックリンで育った。
家庭は裕福ではなかったが学業成績は優秀で、公立校や高校を飛び級で卒業して1935年に15歳でコロンビア大学へ入学した。1938年に初めての作品をSF雑誌『アスタウンディング』に持ち込み、採用はされなかったが編集者ジョン・W・キャンベルの指導を受けるようになった。1939年には別のSF雑誌『アメージング・ストーリー』に「真空漂流」が掲載され作家としてデビューした[6]。
1939年にアシモフはコロンビア大学を卒業し、同大大学院で化学を専攻した。この頃すでに『われはロボット』所収のロボット工学三原則物やファウンデーションシリーズの諸作品、出世作『夜来たる』などの代表作を世に出している。大学院在学中に第二次世界大戦の勃発によって1942年から休学し、フィラデルフィアの海軍工廠に勤務した。1942年にはガートルードという女性と結婚している。終戦直後に徴兵され、化学の学位を持っていることを理由にビキニ環礁での核実験に技術兵として加わえられ、ハワイまで行ったが結局参加せずに9ヶ月で除隊した[7]。
1946年に大学院に復学し、1948年には博士号を取得した。コロンビア大学で1年間ポスドクを勤めた後に1949年からボストン大学医学部の生化学の講師となった。大学では講義と研究の他に共同で教科書の執筆を行い、一般向けのノンフィクションを書くきっかけとなった[8]。SFの執筆は継続していたが、パルプ・マガジンであるSF雑誌の掲載料は高くなかった。しかし1950年にダブルデイ社から初めての単行本『宇宙の小石』が出版され、さらに『われはロボット』やファウンデーションシリーズなど過去に雑誌で発表した作品が書籍化され、印税の形式で収入を得られるようになった。1954年にはSFミステリの傑作『鋼鉄都市』によりSF界の巨匠の地位を不動の物とする。また化学のノンフィクションの作品を出版するようになっ。
1951年には助教授、1955年に准教授となり終身の在職権を得たが、学外での執筆活動について上司や一部の教授たちから不興を買い度々トラブルが発生していた。既に著作から十分な収入を得ていた事もあり、1958年に肩書きのみを保持することで合意し、教壇を降りた。その後は専業の作家・講演者となり、化学以外のノンフィクションの分野へも活動を広げていった。
アシモフは次第に科学の解説者として知られるようになり、科学を概観した『知識人のための科学入門』が1961年の全米図書賞ノンフィクション部門にノミネートされ、1964年にはアメリカ化学会の著述に対する表彰、ジェイムズ・T・グラディー賞を受賞した[11]。1962年にメンサの会員になったが数年後に退会した。1972年に再び会員になり、1974年にはメンサの講演のためにイギリスへ旅行している。
1951年に息子、1955年に娘が生まれていたが1970年から別居し、ボストンから再びニューヨークへ移り住んだ。1973年にガートルード夫人と正式に離婚し、同年に心理分析医のジャネット・ジェプスン(後にSF作家)と再婚した。アシモフとジャネットはNorbyシリーズなどの共著を残している。
1970年にはエラリー・クイーンズ・ミステリ・マガジンにて純粋なミステリの黒後家蜘蛛の会シリーズの連載を開始した。SFでは1972年に久々の長編である『神々自身』を出版し、ヒューゴー賞 長編小説部門[14]とネビュラ賞 長篇小説部門[15]を受賞した[16]。1982年には、ファンや編集者の要望に抗しきれず執筆したファウンデーションシリーズの30年ぶりの新作『ファウンデーションの彼方へ』がベストセラーとなり、以後再び精力的にSF長編を執筆、同シリーズとロボットシリーズの統合を成し遂げている。
アシモフは1992年4月6日に没した。死因は後天性免疫不全症候群(エイズ)によるもので、1983年に受けた心臓バイパス手術の際に使用された輸血血液がHIVウイルスに汚染されていた事が原因である。アシモフの死因は、彼の死から10年の後に出版されたジャネット夫人の自伝 It's Been a Good Life(我が良き生涯)で明らかにされた[17]。アシモフは生涯で500冊以上の著書を執筆した。
人物
アシモフは自伝の中で英語とイディッシュ語の2ヶ国語が使えると述べている[18]が、イディッシュ語による作品は残していない。すべての著作は英語で行われた。
ニュー エイジ メダリスト スポラ ぽち袋 スモーカー ブックレ リピート ハナイカダ チェーン レーター トゥース フェンス 大蔵大根 ろくまい サンパウロ とわだ シロップ たかね トロライト ブッサ ブレー シュノ ゴツコーラ チューブ インソール シルク 黒かぼ 愛宕柿 モーター ローンチ ゲリララ ヒッコリ ピタ最適 リシック サーチ恋路 オクイ パーカ シンクロ パンチャー バリティー ミャン シート フラン アップ ハンマ ティッシモ デトロ 万寿国 ブルー
作家としての地位を確立し、著作からの収入で裕福になってからも「仕事中毒」であり、贅沢をしたり余暇を楽しむことは少なかった。アシモフ自身は、父の自営する店で幼い頃から働いた影響であると自己分析している[19]。飛行機嫌い[20]で、その生涯で飛行機を利用したのはただ2度のみである[21]。そのため遠くへ行くことは少なかったが、東海岸の各地で講演を行った。自宅近辺で開催される世界SF大会にはよく参加し、他の作家やファンと陽気に交流を楽しんだ[22]。普段[23]と同様に女性に対して飛びついたりしたが、相手がマジメに相手をしかえすと驚いて引き下がる、などのエピソードも残っている。また、ハーラン・エリスンなどとは過激なやりとりを楽しんだ。
アシモフは人道主義者で、American Humanist Associationの会長を務めた[25]。かつ合理主義者だった。純粋な信仰心に反対することはなかったが、超常現象や根拠のない思想に対しては断固とした態度を貫いた。また狭くて閉ざされた空間をこよなく愛する閉所愛好家(閉所恐怖症の反対)でもあり、地下室や屋根裏部屋でタイプライターに向かう時間が無上の喜びだったと自ら語っている。
ほとんどの政治的問題においては進歩的な態度をとっており、若い頃から一貫して民主党の強い支持者だった[26]。1970年代初期のテレビのインタビューでは公然とジョージ・マクガヴァンを支持した[27]。
アメリカのSF界を2つに割ったベトナム戦争への賛成・反対問題については反対派に回り、他の反対派メンバーとの共同反戦広告の新聞への発表を主導した。1965年に、ソ連のSF評論家たちが「ブルジョワ社会の問題点を描いていない」アメリカSFについて、アシモフやポール・アンダースンを名指しして批判した際、アンダースンは敢然と共産主義国家の偽善を批判して反論したが、アシモフははっきりした政治的発言をしなかった。
1960年代末葉以前、多くの進歩的な政治活動が不合理な政策の原因となったことは、彼にとっては不幸なことだった。さらにスリーマイル島の事故以降も一般社会への原子力の応用に肯定的だったことは、彼と左派の人々との関係に少なからず影響を与えた。このほか、ポール・エルリッヒ(Paul R. Ehrlich)によって発表された将来の見通しを受けて、多くの著作で人口管理の重要性を訴えた[28]。晩年アシモフは、中産階級の人々が郊外に移動したことによるニューヨークの税収減少のため、生活の質が悪化したことを嘆いている。彼の最後のノンフィクションの著作は Our Angry Earth(怒れる地球、1991年、SF作家フレデリック・ポールとの共著)であり、この中で彼は地球温暖化やオゾン層の破壊といった環境危機について論じている。
彼はSF界はもちろん、ロボット工学など現実の科学界や産業にも多大な影響と貢献を残した。彼の栄誉をたたえ、(5020)Asimov と名づけられた小惑星が存在する。東京大学で2003年に開発された、起き上がり動作に特化したロボットが、彼の小説に登場するロボットR・ダニール・オリヴォーに因んで「ダニール」と名付けられている。本田技研工業の人型ロボットASIMOはつづりが同じだが、あくまで無関係とされている。
SF
アシモフは、アーサー・C・クラーク、ロバート・A・ハインラインと合わせて三大SF作家と言われることも多い。SFの著名な賞であるヒューゴー賞を7回、ネビュラ賞を2回受賞している。
初期
10代の頃からSFファンであり、『アスタウンディング』誌の読者欄に書評を投稿したりSFのファンダムに参加していた[31]。1938年に初めての商業作品をアスタウンディング誌へ持ち込んで以来、編集者のジョン・W・キャンベルの指導の下で実力をつけて行き、いわゆる「アメリカSFの黄金時代」の立役者の一人となった。アシモフはキャンベルと個人的にも親しくなり、その影響を強く受けた[32]。
キャンベルの発案で書かれ出世作となった短編「夜来たる」(Nightfall、1941年)は Bewildering Stories 第8号で「もっとも有名なSF短編」の一つとして挙げられている[33]。また、1968年アメリカSF作家協会(現アメリカSFファンタジー作家協会)による投票でも「これまでに書かれた最高のSF短編」に選ばれている[34]。彼の短編集『夜来たる』(Nightfall and Other Stories)の中で次のように述べている。
「『夜来たる』は、わたしのプロ作家としての経歴の中で、一つの転換点となった作品である(中略)突然、私は重要な作家と見なされ、SF界が私の存在に注目するようになった。何年か後には、わたしはいわゆる"古典"を書いたことがはっきりした」[35]
短編小説以外にもSF雑誌に「チオチモリンの驚くべき特性 Thiotimoline|The Endochronic Properties of Resublimated Thiotimoline 」(1948年)という科学論文のパロディーを書いた。ペンネームが用いられるはずが博士号の口述試験の直前に実名で掲載されたためにアシモフは不合格とされる事を心配したが、試験に合格した[36]。
他にも後述のファウンデーションシリーズやロボットシリーズの初期作品にもキャンベルは深く関わっており、良くも悪くも多大な影響を及ぼす事となった。
その後就職のためニューヨークを離れボストンに転居した事、キャンベルがダイアネティックスなどの疑似科学に傾倒していった事から二人は疎遠となり、折しもアスタウンディング誌に代わって台頭してきた『ギャラクシー』誌のホーレス・ゴールド、『ファンタジー&サイエンス・フィクション(F&SF)』誌のアンソニー・バウチャー両編集長との関係を深めた。前者は代表長編『鋼鉄都市』、後者はF&SF誌の科学エッセイシリーズに関わる事となった。